Dreamblade Story 『茨の城砦』


I.夢で逢えたら

ロビン・D・ロウズ
Translated by Yoshiya Shindo
Original:http://www.wizards.com/default.asp?x=dbm/article/20060710a

 ケンドラ・ヴェールはまだ夢の中にいることに気づいていなかった。それは細々としたものがゆっくりと積み重なっていくことでわかるものなのだが、その瞬間は、彼女の周りのすべてのものが現実的でまともだった。彼女と妹のエミリーはカフェの席に腰掛けておしゃべりに興じていた。テーブルにはふわふわのラテが置かれ、そこからコーヒーとミルクの香りが立ち上っている。彼女はフォークの先で白く冷たい皿の真ん中にラズベリーのビネグレット・ソースで印をつけていた。それは美しく、奇妙に意味深だった。まるで彼女だけに残された秘密のメッセージのようだ。なんとも妙な話だが、その中にいるケンドラにとってはまったく自然なこととして受け止められていた。

 彼女とエミリーは、いつものように自分たちの仕事の話をしていた。二人とも自分の仕事が気に入っていたが、その熱中振りは他の人々の反感を買うのに十分だった。人並み以上の出来に対する周りのやっかみ無しに本気で仕事に入れ込めるのは、二人っきりでいるときぐらいだ。ケンドラはあけすけな笑い声を上げた。体の奥から喜びの泡が集まって、グロスできちんと整えられた唇からはじけているみたいだ。彼女がエミリーと一緒に全力でやるようになってから、ずいぶんと長い時間が経っていた。それは人生においても重要な一部だった。二人の仕事に対する執着は、集まって仕事に対する執着を話し合う時間の邪魔になっていた。

 エミリーは目を輝かせながら、女ハンターの顔で懸賞記事の話をしゃべりだした。「すごい特集になるわよ」 長く白い手をひらひらさせながら彼女は言った。彼女は前にケンドラと会ったときよりも髪を短く切り、トップを抑えて首元でテーパーを入れていた。なかなか可愛く似合っている。

 「巻頭記事?」 ケンドラはたずねた。

 エミリーは笑った。「雑誌を読んだことあるの? 巻頭記事なんて映画スターばっかりよ。いい、あたしのはおっきな文字でタイトルが入って、しかも署名入りよ。で、ナオミ・ワットの顔のすぐ横に載るの。まあ、パリス・ヒルトンかジミー・マクラクランか誰かかもしれないけど」

 「映画スターがいることを神に感謝しなくちゃね。イカレた世界の唯一の心の拠り所なんだから」とケンドラが言った。彼女は無意識にカフェのテレビに流れるニュースのヘッドラインに目をやった。ここ最近じゃ、最新の大惨事を見逃すつもりが無ければ、半日とテレビから目を離していられない。陰鬱たる話の内容を知らないようじゃ、あきれるほど無関心で無神経なやつと思われるのが落ちだ。「何の問題も無いようなら、この人でもインタビューしてみたら?」

 エミリーは気乗りしないようにコーヒーカップの脇をスプーンで鳴らした。「そう願いたいわね。でなきゃ、出だしで詰まっちゃう」

 カフェの周囲の雑音が突然消えた。ケンドラは何の音楽も聞こえないことに気づいたが、それも奇妙なことだ。それによく考えてみれば、この場所のレイアウトもちょっと変な感じがする。エミリーの肩越しに見える店の前側は通りに突き出していて、まるでここの経営者が歩道を塞いでパティオにしているみたいだ。歩行者がそこを回り込んで車道に出て行くので、道路はすっかり渋滞している。ケンドラは怒り狂ったクラクションがあちこちから飛び交うのを警戒したが、それもまったく聞こえてこない。まったくだ。

 「どうしたの?」 エミリーが尋ねた。

 「気楽なケースワーカーの仕事に戻らなくちゃいけなかったのよ。誤認逮捕は2008年以来四割も上がるし、私の矯正委員会の仕事もずっと重要になったわ。大規模な問題に取り掛かっていかないと、ただの人の首がどんどん落とされていくことになるのよ」 時が止まった。テーブルには塩と胡椒のビンが置かれていた。今始めて気づいたのだ。それは瀬戸物の人形で、擬人化された狼のような形をしていた。ビンの顔は前を見据えていた。それはまるで、遠くの山の頂上に現れる危難を見張っているかのようだ。

 「何の話だっけ?」 エミリーが尋ねた。

 「あなたの眼鏡」 ケンドラは言った。

 「それがどうしたの?」

 「何か違う」

 「ええ、気に入った?」

 確かにケンドラの好みだ。それは昔ながらのキャッツアイ型の今風のバリエーションで、青緑色の金属が腕に渦を巻いている。だけど、問題はそこじゃない。「違うの、それ、さっきまでつけてたのと違ってる」 ケンドラは必死で集中し、彼女から逃げ出そうとしているこまごまとしたことに考えを向けた。「さっきまで、あなた昔っからの眼鏡をしてたわ。本当に、ずっと前からの。ものすごく大きくてフレームが透明のプラスチックのやつ。高校から使ってたわよね」

 エミリーは笑った。「バカみたい。なんでそんな物をかけてなくちゃいけないのよ?」

 ケンドラは再びテーブルを見た。狼はいなくなっていた。そこにあったのは山積みの朝食の皿で、自分たちが頼んでも食べてもいない食べ残しの汚れにまみれ、更紗のテーブルクロスいっぱいにぶちまけられていた。

 「そうよ! これは私たちの夢よ、エミリー」 こんなことは今でもよくあることだが、彼女が子供のときほど頻繁ではない。醒めてる夢、と二人は呼んでいた。ときに彼女は夢で起きる出来事を変えることも出来た。そしてたいていは、彼女は自分が眠っていることや、その周りに起こっていることを、単に観念的に知るだけだった。

 「なに、私たちってどういうこと?」 エミリーに不審の表情が浮かんだ。ケンドラは気にしなかった。その顔を見ると、五日前に激しくやりあったうぬぼれ屋の検察補佐を思い出すのだ。「姉さんが正しいとしても、」 エミリーは続けた。「夢見てるのはどっちかだけよ。姉さんが私の夢を見てるか、私が姉さんのを見てるか」

 カフェの壁紙の空飛ぶ雁(ケンドラは今初めて気づいた)が、そこから飛び立ち、けたたましく泣き叫びながらV字の編隊を組んで扉をくぐっていった。しかし突然の旅立ちにも、レストランの常連たちは少ししか反応しなかった。

 「違うの、あなたはアイダホだかどこかにいて――」

 「カリフォルニアよ」 エミリーが訂正した。

 「カリフォルニアね。で、私はニューヨークで、夢の中で会ってるのよ。ちっちゃい時みたいに」

 エミリーは小さなテープレコーダーを彼女のほうに押し出した。「そんなことは無かったわ。姉さんはあったって言ってたけど、私は覚えてないわ」

 ケンドラは微笑んだ。「裁判で言うとこの抗争案件ってやつね。起こってないってことと覚えてないってことの間にははるかな差があるのよ」

 突然、カウンターが数マイル先に消え、カフェの常連客もいなくなった。床が低い地響きに揺らいだ。塩入れのビン――普通のガラス瓶に金属の蓋がしてあるやつ――がテーブルから転げ落ち、足元の苔むした岩に当たって最期の時を迎えた。

 エミリーがケンドラの手首をつかんだ。「何か来るわ」

 「あたしが守ってあげる」 ケンドラは財布を開き、何かを探そうとした……いったい何を? 武器か何か? 武器になりそうなものといえば、爪磨きが精一杯だ。でもこれは夢だから、多分彼女は何かを生み出すことができるはずだ。

 二人が耳障りな叫び声を耳にするや、壁が中を舞った。吹き飛んだコンクリートブロックの欠片が、彼らの周りから消えていくカフェに降り注ぎ、テーブルをぶち壊し椅子を粉々にしていった。

 屈強な人ならぬ姿が壁にあいた穴の向こうにかすんで映り、けたたましい声をあげていた。それは屈み込んで、燃えるような三つのオレンジ色の眼が皺だらけの卵形の顔で光り輝き、カフェを見分している。巨大な顎の皮膚は張り詰めていた。涎や粘液が針のように鋭い歯の間から滴り落ち、滑らかな薄茶色の皮のあちこちは血管や筋肉で盛り上がっている。太い指が床からコンクリートブロックの破片を拾うや、それは握りつぶされ塵となった。四肢動物のように壁の穴から大股で這い出てきたその背中や肩からは、奇妙な外肢が伸びていた。それは互いにくねりあう四匹の蛇のようで、尖った嘴のような頭には三角形の鋭い骨が三つ突き出していた。

 「これは夢だって言って」 エミリーが囁いた。

 「これは夢よ」 ケンドラが答えた。

 二人は椅子に腰掛けたまま、不可解にもその視線を無視しようとしていた。カフェの床はどんどん広くなっていって、いまや残っているのは自分たちだけだ。出口へ逃げ出す人々もいなかった。他の常連は単にいなくなってしまっただけだ。

 オーガのような生物はエミリーを見て、湿った、ガラガラの声を喉の奥から吐き出した。たぶんそれは「お前」という言葉なのだろう。

 ケンドラはバターナイフを掴むと、震える白い指で握り締めた。何とも意味のない行動だが、それを手放すこともできなかったのだ。

 残忍な爬虫類のような笑みが、怪物の邪悪な表情からこぼれ出た。「エミリー・ヴェール」 今度ははっきりした声だった。

 これが夢なら、ケンドラは目覚めることができるはずだ。彼女は目を閉じようとしたが、なぜか思い通りにはなってくれなかった。ケンドラは心の中でつぶやき続けた。これは悪い夢だ。これは悪い夢だ。これは悪い夢だ。

 エミリーは訴えかけるように姉を見つめた。彼女が何を考えているかは明白だ。あたしをおいて行かないで。

 怪物はこちらに向かっていた。

 ケンドラは動かない脚に活を入れ、なんとか行動に出ようとした。彼女は椅子からよじり出てたが、滑り落ちた先はでこぼこの岩の床だった。両手足から転げ落ちた彼女の腕に激痛が走った。倒れた椅子につかまって立ち上がった彼女から、埃と苔の欠片が舞った。

 怪物はまだ椅子から動けないエミリーに突進していった。ケンドラは怪物の背中に椅子を振り下ろした。椅子は粉々に砕け、背中の蛇が振り返って空気をこするような音を立てた。怪物は振り返り野獣のような顔をケンドラに向け、鼻息を上げると、後ろ手で彼女をカフェのカウンターに吹き飛ばした。一瞬、彼女には何も感じてなかった。直後、肩を丸めてシロップ瓶の雨から体を守ろうとしたケンドラの骨と顎に、カウンターに激突した衝撃が走った。

 怪物の筋肉だらけの腕に捕まったエミリーは恐怖の叫び声をあげた。彼女はケンドラの名を呼んでいた。怪物はカフェの窓を突き抜けていったが、窓はその瞬間に溶けて消えてしまったようだった。ケンドラは追いかけようとしたが、足はまるでセメントのようだった。

 彼女は絡まったベッドシーツから逃れようと暴れていた。ニューヨークのアパートの固い床のマットレスの上に裸足でいることに気づいたケンドラは、一人笑った。手は握りこぶしの形で、今にも化け物に殴りかかろうかとしているようだ。遠くで通りの車の音が聞こえ、彼女は現実感を取り戻していった。目覚まし時計の青いデジタル文字が4:35を示していた。

 彼女は再びマットレスに倒れこみ、汗まみれの髪をなでた。もう、ずいぶんはっきりした夢だったわ。まだ幻想のカフェのエスプレッソとか石の床とかの匂いがするみたい。

 スリッパを見つけると、彼女は居間を抜けてバスルームへと向かった。彼女は薄明かりの中で自分の顔を調べた。鏡の中のケンドラは、大惨事の生き残りのような硬直した蒼白い顔で自分を見つめていた。

 ベッドルームへ戻る途中、彼女は鍵と携帯電話の置いてあるサイドテーブルの脇を通った。悪夢を見たっていうだけでエミリーを電話で困らせるようなことはしないつもりだった。たとえそれがあまりにも奇妙で鮮烈だったとしてもだ。たいていの夢は目覚めて数分もすると忘れてしまうものだが、今回のは記憶の中にはっきりと残り続けていた。彼女は両手をなでた。まるで本当に落っこちて怪我をしたかのように。

 ケンドラはサイドテーブルの脇で立ち止まった。ちょっと計算をしてみよう。エミリーが本当にカリフォルニアなら、向こうは午前の1:35のはずだ。ばかげた夢の話をするにはやっぱり遅すぎる。妹がまだニューヨークにいるとしたら(たぶんそのはずなのだが)、状況はさらに悪くなるだろう。ケンドラは携帯を掴むと、メモリーからエミリーの番号を呼び出した。

 「もう、あたしったら何してるの?」と彼女は声を出した。大声をあげることで呪いが解けたようだった。彼女が携帯を置こうとしたとき、留守番電話が入っているのが見えた。彼女は肩をすくめて、キーを叩いてメッセージを呼び出した。

 それは母親の声だった。

 「ケンドラ? いるの? 電話に出てくれない? 留守番電話って大嫌いなのよ。ケンドラ、湖の家のほうに電話をちょうだい。余計な心配だって言うかもしれないけどね。いつもそうよ。でもね、ケンドラ――ケンドラ、あなたの妹に連絡がつかないの。エミリーが行方不明なのよ」

― 続く


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